勝手にぼやき
その10。人間と関わるということ
人間はいつの時も「他人」と呼ばれるものと関わり合いを持たねば生きてはいけない。強者があるなら、弱者も存在する。勝者と呼ばれる者もいれば、敗者と呼ばれる者もいる。だがいつの時も「勝者」でいたいという気持ちが、予想できぬ行動へと走らせたりするものだ。人間は「肉体」と「精神」で成り立つと考える。「肉体」の傷はいつか癒える。跡を残すとしても流れる血は止まる。だが「精神」の傷は癒えることはない。癒えたと見せかけても完全に癒える事はないからだ。理解できぬ人間にはわからないであろう。いや理解することさえ無理であろう。私は自分を弱者だと思った事はない。他人から見れば弱き者と見えるかも知れないが、今ここに存在している事が勝者であると確信している。だが時には弱い一瞬が見え隠れするものだ。「他人」を拒絶する事は簡単であろう。だが、それを「良」とし出来ぬ者はどうすれば良いのだろうか。所詮「他人」の心などわかり得ぬ事だとわかってはいるが、何気ない行動で、何気ない言葉で、まるで「拒否」されたと知った瞬間、芽生えるのは一つしかない。大袈裟であると思うが「復讐」だ。「他人」との関わりを断つ時、そこには誰にも理解出来ぬ何かが存在するであろう。深い意味などないのかも知れない。それでもたった一つの行動で被害妄想を強くさせてしまう人間もいるのだとわかって欲しいと思うのは勝手だろうか。本人には何気ない行動かも知れない。何気ない言葉かもしれない。だが、妄想は留まる事を知らず走り、「狂気」にすり替わる。どこまでおさえられるか、あとは精神力の問題であろう。だが、「人間」はそんなに強くはない。人間と関わるということ。「頭」では理解できるが、「精神」は追いついていかない。心の欠片たちは、どこへ行けばいいと言うのだろうか。見て見ぬふりなど出来ない、無かったものと理解することなど出来ない。「生」がある限り、幾度となくこの疑問を自分に投げかけて行かなければならない。


その9。主婦系?
「主婦」この言葉を知らない者はいないであろう。既婚者の女性が家庭を守ることの総称だ。さて、この「主婦」の特徴として、ドラマなどでも典型的なモデルが登場するので、わかりやすいと思う。だが、本当の「主婦」と言うのは、尊敬の意を持って呼ぶものであり、違った種は「主婦系」と呼びたいところである。本来の「主婦」とは家庭を守る重鎮。なくてはならない者である。だが、近年メディアで報道される主婦の特徴は「口が軽い」「知りたがり」この2つが大きい。そして悪い事に、自分が「口が軽い」とは思っていないのだ。良く言えば、周りに協調性がある。だが悪く言えば「八方美人」である。そして本人には罪悪感が全くない事に原因があると思われる。指摘されれば、「私はこんなに良くしてやってる」等の恩をきせるような言動で悲劇のヒロインになるであろう。そして、そこで止まるはずもなく、あらゆる手を使い、「私は可哀想な人」とふれ回るのである。私もかつて約10年ほど「主婦」であった時間があった。確かに人の話は気になる。けれども、そこで一歩下がって考える事が出来たため、「典型的」とも言える主婦にはならずにすんだ。ただ、相談を受ける事は多かったが。そして自然と耳に入るのである。他の「主婦」達によって。話は尾びれが付き、話しやすい方向へ変化し、真意を聞く事はできない。これが俗に言う「主婦の井戸端会議」である。これに入れる事が社交性だとは思わない。あえて、人を傷つける行為を集団で行ってるに違いないからである。だが、止めようとは思わない。なぜなら先に述べたように、「自演悲劇女優」への切符を手渡すだけである為だ。またこの「主婦系」は、女性だけとは限らない。昨今は男性にも多く見られる事である。人の事なので勝手と言えばそれまでだが、覚えておくといいだろう。必ず「しっぺ返し」が来る事を。そういった現状を何度も見てきているので間違いない。自分が他人の事を可笑しく言う3倍、自分は他人に言われてるのだと思った方がいいだろう。まぁ、これを読んでも気付かない事こそが「主婦系」という事を示しているのだが。日本古来の家庭を守る重鎮だったはずの「主婦」は、一体どれくらいいると言うのだろうか。


その8。類は共(友)を呼ぶ

一般的に良く聞く言葉である。その時は分からずとも、後に「あぁ」と納得させる材料となる言葉でもある。世の中には己の口から発する嘘で生きている人たちが多い。また、必ずといって被害妄想が強く、他人を巻き込まずにはいられない性分のようである。
さて、私はよくそう言った話に巻き込まれる。だが事実ならこちらから謝罪する。だが、嘘偽りの話の当事者に仕立て上げられやすい。私はただ黙って見ている。なぜなら、こちらには「その主張」を嘘と決められるだけの証拠があるからだ。真実を知っている者には話す。そして、湧いてきた怒りの感情を飛散させる事に集中することになる。こちらが何度無視し、時間を過ごしてきたとしても、相手は自分の都合で「でっちあげ」を当然のように広める行為に出る。あまりに馬鹿げた行為だと一瞬とれるだろう。だが、その行為こそが後に驚異となる。なぜなら、本人は自分が被害者だと信じて疑わないのだから。抵抗する事さえ馬鹿げた行為だと悟らせてくれる友人たちがいるからこそ、自分の正常な感情と精神を保ててる私とは違い、周りは「可哀想」と慰め、さらに被害者妄想が進むであろう。
こういった事は年に数回ある。直接的な攻撃ではなく、不特定多数の出入りする場で晒され攻撃と見なされる行為をしてくる。真実を知らずとも慰める行為は、まさに類は共(友)を呼ぶである。

その7。母親は孔雀

外出した時の話である。始発だったため偶然座ることが出来た私は、一番出入り口側に座った。発車寸前に、母親らしき人と子供、そして母親の妹らしき人と母親の母親が乗り込んできた。その母親は白いコートに身を包み、タータンチェックのスカートをはき、黒いブーツをはき、背も高く、やせている人だった。聞きたくなくても、会話は耳に入ってくる。その会話に少々疑問を持った。その会話を抜粋。
妹らしき人:「なぁ、○○ちゃんの手かわいそうやな〜」
母親:「あぁ。そうなの。私もひどい乾燥性でね、同じなのよ」
妹らしき人:「何かクリームでも塗ってあげればいいんと違う?」
母親:「あぁ、そうね。そういう方法もあったのね」
 その子供の指先はあかぎれのようになり、唇もまたひどく荒れていた。
母親:「なんかね、この間は切れて痛くてお弁当食べれなかったんだって。あはは」
妹らしき人:「かわいそうやん・・・」
目的の駅に到着すると、母親は子供を一瞬にらみ、手を無理矢理と言っていいほど強く握り、足早に去っていった。子供はまるで引きずられているようだった。自分はきれいに着飾るが、子供の痛みをもう少しわかってやれないのかと疑問に思った。口が切れて弁当が食べれないという事を、笑って言うことなのだろうか。まるで孔雀のようだと私は思った。だが、どんなに着飾ったとしても、性根と根性は着飾る事は出来ない。いつか子供が大きくなった時、きっと仕返しを受けるであろう。そして、他人はあなたが気にしているほど、美人だと思っていないし(実際特別きれいではない)、洋服にも興味などないのだ。目がいくのは、血をにじませている子供の手と唇だった。子供は何度も舐めていた。舐めることはさらに荒れを悪化させるが、見て見ぬ振りな孔雀と自分で直そうとする子供。現代社会の典型的な親子なのだろうか。

その6。偏見の目

最近良く考えること。インターネットが普及して誰でも手軽にネットを楽しんでいるが、実際はどういう用途が多いのかということ。メッセンジャーが普及し、手軽にチャット感覚で話を楽しめるが、これには便利な機能がついていて、相手を「拒否」できるのである。問題は、拒否していて、自分の話を聞いて欲しい時だけ「解除」するというやり方。私はいわゆる「精神病」を抱えているが、以前裏サイトをおいていた。その時に裏だけに出入りする人も増えた。だが今考えてみると、訪れる人たちはおもしろ半分だったのではないだろうか?ということである。裏サイトを閉鎖してからは、以前訪れていた人がぱったり訪れなくなった。そして、私の調子が悪い時はメッセンジャーで私を拒否する。自分の愚痴は言いたいが、人の愚痴は聞きたくないという事なのだろう。運の悪い事に私は勘がいい。相手の考えてる事はわかってしまう。辿り着いた答えは、一番近くにいた人たちが、一番偏見の目で見ていたということだ。さぞかしおもしろかっただろう。そして相手は必ず思うのだ。「私はこんなに手を貸してやったのに」と。それこそおかしい発想であり、その倍以上、私は愚痴を聞き続けてきたということをここに書き留めておく。いつまでも偏見がなくならないのは、このあたりであろう。

その5。腰痛

最近はPCを扱う仕事の人が多い。私もそうなのだが。肩こりからはじまり、到達するのは腰痛。以前「ぎっくり腰」をやったが為に、季節の変わり目と重い物を持ち上げる際に激痛がはしる。整骨院へ通った際言われたのが、筋肉の硬化。常に柔軟運動をしなさいと言われた。つまり運動量が極端に少ない事が原因だった。整骨院へ通っている間は、筋肉も柔らかくなり、痛みが和らぐ。だが、通院をやめた途端、筋肉の硬化が復活し痛みを伴ってくる。たとえば、布団一つでも違うらしい。柔らかい布団は背骨が曲がってしまうため疲れがとれない。だが冬は固い布団ほど冷たい物はない。昔、ぶら下がり健康機なる物が流行した時があった。ぶら下がって背筋を伸ばすという機械だが、今の健康器具と同じだろう。当時はまだ柔らかい体だったため、役に立たなかったが今は切実に欲しい。まず「のばす」という行為が寝ている時間のみで、極端に少ない。現代病のひとつにあげられる腰痛。今年も冬が来るのでまた苦しむ事になるだろう。

その4。好き?嫌い?

人を分類する時に、「好き」か「嫌い」この二つで分けられる。「好き」の中にも細かい分類はあるもので、「こういうところは嫌い」だが、「気にする必要もない」が好きでいられる。嫌な部分より、好きという心理が強いからだ。だが反対に「嫌い」だけど、「こういうところは好きだった」という場合、あきらかに好きな部分より嫌いな心理が勝る。私の場合、一度見ただけで「嫌い」とは判断しない。つき合っていけば行くほど、「好き」という感情が上回ってくる場合が多いからだ。だが、ある程度一線を越えると、「とてもつき合っていけない」か「これぐらいならお互い様」と二つに分かれる。「こういう人」なんだとレッテルを貼る事によって、気にせず過ごせる場合も多いが、たいていの場合、我慢出来なくなる。男女間の恋愛事だけに留まらず、普段の生活の上での人間関係にも、それは反映してくる。たとえば、嫌いな上司がいたとする。「嫌い」だけど実力は評価している場合、我慢出来る範囲。だが、「嫌い」であり、なおかつ「実力が伴わない」場合は、口数も減り、話す事もなくなるであろう。人を分ける際に、私が避けている事。それは「相手への評価」である。話が盛り上がる背景には、特定の人物を「好き」か「嫌い」かという話で盛り上がる事が多い。だが、相手の本心はどこにあるのだろうか、と疑問視する場合も多い。なぜなら、人の多くが誰にでも好かれたいという心を持っているからだ。そういった心を多く持たない私は、相手を疑問視してしまう。置かれた状況と展開を見つめている間に、その疑問は増えるばかりで減る事はない。そうなれば自然と会話をする必要もなくなる。そしていつしか、自分に攻撃を加える者としての判断を下してしまうであろう。

その3。日記の誤字

記憶が薄れてくると、あの時は何をやっていたのかなど忘れがちな毎日の生活。たとえ印象強い行動をしたとしても、忘れてしまうものである。そこで日記と言うものをつける。たとえば何月何日にこういう事をした。など。だがその時は勢いで書いた文章には、その時の感情も入り込んでしまいがち。本当はこう思っていた。など、後に笑えるような内容だがその時は本人なりに一生懸命なのだ。ただ見る方も流せない事がある。それは誤字。今の世の中パソコンが普及して、ワープロソフトや、そえに伴った入力ソフトで簡単に文字を打ち込む事が出来る。だが、同じひらがなに対し、変換される漢字がいくつあるだろう。たとえば、「かんじ」と打ち込む。出てくる候補として「感じ・漢字・幹事・監事・完治・・・」などとかなりの数である。だが、その漢字によって意味合いがまったく違うということを考えた事はあるだろうか。日本語を理解すると言うことは、まずそこから始まる事だと考える。誤字だらけの日記は、呼んだ人に笑いを与えてくれるだろう。だが笑われているのは書いた本人。少々情けないという感情が浮かぶのではないだろうか。そして、仮にも物を書くにあたって、誤字だけは避けたいと思う。出来上がった物に対して、漢字の変換が間違っているため、違う印象を与え、まったく違う話になるのはよくあることだ。自分が書いた物を、今一度読み直す余裕を持って書いてもいいと思われる。また書いた本人でさえ気付かない場合が多い。その際は読んだ人に校正してもらうのも、ひとつの手段だと思われる。だが、毎日のように誤字だらけだと、いつしかその人は「いつものこと」と、片づけられてしまうだろうと思われる。
誤字。一番奥が深いこの言葉。私も気を付けよう。

その2。うどんの洗い方

手軽に食べれて長期保存可能な乾うどん。なべで湯を沸かして、茹でる。茹で時間は好みだと思うが、洗い。これが問題である。人によって、濁りがとれるまで洗う。数回流す程度で良いと違うものである。私は、これでもか!と、濁りがなくなるまで洗う。歯ではかみ切れる麺も力任せに洗っても切れないものである。おけに水を流しっぱなしにし、無心で洗う。このとき気付くのが、麺をとりまく「ぬめり」。ぬるぬるとして、手触りが悪い。だが、このぬめりが良く滑る。洗っていても指の間から滑り流れて行く。たどりつくところは、排水溝なのだが。生麺なら、周りについている「粉」をよく落とし、茹で、その際に水が濁る。油断しているとあっという間に溢れ、ガスコンロに流れ出たゆで汁が、のり状になるのも珍しくない。乾麺には粉はないが、そのまま乾燥させるので、粉も乾燥されているのだろうか。気になったので、うどんの茹で方を調べてみる。日本三大うどんと言われる3つについてだ。
<稲庭うどん>
麺が半透明になったところで湯からあげ、冷水を注ぎ、ぬめりがとれるまで洗う。
<讃岐うどん>
ざる・冷やしはごしごし洗い、釜あげは洗わない。
調べていて、ひとつ気になったこと。日本三大うどんと言えば、讃岐・稲庭はわかる。だが、もうひとつ。群馬の水沢うどんか、長崎県の五島うどん。調べれば調べるほど、どっちが本当の三大うどんかわからなくなった。こうなると、洗い方などどうでもよくなる。洗い方、私はぬめりがとれるまで洗う。今後もこの方法はかわらない。それにしても、果たしてどっちが本当の日本三大うどんなのか・・・
そして、いとも簡単に答えが出た。答えが知りたい?

その1。自己中心型

インターネットが普及して、さまざまな性格の人間たちが「ネット」と言われる世界で接する事が多くなり、良くも悪くも顔が見えないと言うところから、「なんちゃって」と呼ばれる種類の人間が増えてきたような気がする。せまい空間で、いつしか自分は「すごい」とか思いこんでしまい、それの行動が伴ってしまう「自己中心型」。狭い空間にラットを入れ、いつの間にかその世界で一番になった気分でいるような、それに似た現象だと思われる。ここで忘れてはいけないのは、世界という言葉はとても広いと言うこと。それを忘れ、自分中心でいれば、おのずと人は離れていく。そして、本人はそれに気付かない。その時出る言葉は決まっていて、「私はこんなにすごいのに」「私はこんなに、みんなの為に尽くしているのに」これが、そもそも間違いの発想だとは気付かないのだろう。他人と接して、気を遣わない人がいるのだろうか。何も考えてないように見えても、誰よりも気を遣っている場合もあるのだ。そこを理解しようとしないのが、「自己中心型」なのだが。
顔が見えないと言っても、結局はどこからかネットに接続しているので、調べようと思えば簡単にどこの誰という事がわかってしまうと言うことに、気が付いていない人が多いのも現実。また、最近はオフラインで会う「オフ会」で、現実の人間と接する機会も増えている。その時に「ネットと違う」という言葉は、最低のマナーである。見たこともない人間を、言葉だけでイメージ作りをし、それと違うと言われても、当事者は意味がわからないだろう。
私も、もう一度考え直さなければならない。人に気を遣っていても、相手がまったく理解していない場合や、また相手は気を遣っているつもりでも、実はまったく気を遣っていない場合。人によって感じ方が違うことは仕方ないが、せめて「普通の人間」としての感性は失いたくないものだ。

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